奥深い中国語 ──“做人zuòrén”
“做人”の組み立ては「動詞“做”+目的語“人”」となっており、単語も組み立ても極めて原始的かつシンプルな外見だが、
意味するところはとても奥深い言葉です。情理に訴える表現として、ここで詳しく取り上げてみたい。
まず対人関係において、礼を失したり、欠いたりしたときに相手に詫びる言葉や、
後悔・自責の心情を表現するフレーズは、多々ありますが、花形はなんといっても初級で習う“对不起duì bu qĭ”。
動詞の後置成分である“…不起”は、負担能力や資格がなくて…することができないことを意味している。
“我对不起你”を文法的に直訳すると
「私はあなたと向き合って対面しようにもそんな資格は自分になく、うな垂れたままでいるしかない」。
つまり、負い目や精神的な負担を抱えて、相手に顔向けできず、ひたすら平身低頭したまま恐れ入る図が目に浮かびます。
日常会話でよく使われるこの“对不起“は、文脈によって軽い調子の「すみません」、「ちょっと悪いけど…」のほかに、
謝罪の気持ちを表す「ごめんなさい」、「申し訳ありません」に至るまで語義範囲が広い。
没脸见人 VS. 没脸做人————どっちが深刻な「人間存立危機事態」?
さて、顔向けできないと言えば、思い浮かぶのは “没脸见人méi liăn jiàn rén”(ひと様に合わせる顔がない)です。
さらに似たものに“没脸做人méi liăn zuò rén”が控えている。
思うに、“没脸见人”の方にはまだ逃げ道があります。
つまり、ほとぼりが冷めるまで一時しのぎに人と会わなければ、なんとか有耶無耶にする方法がないわけではないが、
“没脸做人”の方はそれより遥かに深刻な事態を表しています。何故でしょうか?
まず中国語の“人”という文字は、シンプルな形をしていますが、「人柄・人としての品格」、
「一人前の人間(*成人chéng rén=心身が発達して一人前になった人)」など、
なんと全部で10種類以上の意味用法を持っているので、軽く見てはいけません。
それが動客連語“做人”になると、処世態度や価値観と直結して、一段と奥深い意味が加わる。
辞書には「人として世に処してゆく/人と協調してやって行く/身を正しく持する」などと出ています。
この“做zuò”は“当dāng”=充当chōngdāngと同義語で、「…の身分になる/…の役目を果たす」ことを指す。
( 例:做妈妈;母親になる・母親の役目を果たす)
したがって、“做人”は「世の中の一員として、人としての役目を果たす」となる。
要するに、この世に生まれた人間は、処世態度として「自分の社会的立場をきちんと守り、責任を果たす」ことが本筋であり、
歩むべき正道である、と意味している。
他人への権益侵害行為は、己の恥曝し
一方において、儒教には“知耻zhī-chǐ”(恥を知る/羞恥心) という教えがある。
つまり、規律・法律に違反して、他者の権利や利益を侵害することは、自己の名誉・面目を傷付ける行為であり、
世間に恥を晒して、自分を辱しめるものだと説く。
個人ばかりでなく国家レベルでも理屈は同じであろう。
つまり、他国の権利・利益を侵害する行為は自国を辱しめることになるというわけだ。
“没脸做人”の“脸”は、体面・面目・メンツを意味するので、“没脸做人”は儒教思想から生まれた言い回しと考えられる。
結局、“没脸做人”は本来、
「恥を恥とも思わず、平気で窃盗・詐偽・放火・殺人など恥知らずな悪事を働く破廉恥者は、
もはや人間として失格、人間稼業をやっていられない」ことを意味する。
言い方を変えると、「人倫・道義に著しく違背して許しがたい破廉恥罪を犯し、
もはや人間廃業しなければならないほど劣悪なレベルに達している」という強烈な意味を表しています。
人間らしい心を持たず、恩義・道義も人情もわきまえない者は「人で無し」であり、
「人間廃業」該当者である、と最大級の非難を浴びせている。
そのように非難された者はもはや立つ瀬がなく、身を置く社会の中でいわば一種の存立危機事態に陥る。
その一方で、儒教は救済の道・挽回の方法を示すことも忘れていない。
それは“痛改前非,重新做人tòng găi qián-fēi”,
つまり「前非すなわち人倫・道義に違背した罪過を深く悔い改め、真人間に生まれ変わる」ことである、と説いている。
これはまさに中国伝統の儒家思想の説く道徳規範の根幹をなすものだと言えよう。
乱用例が目立つ “没脸做人/méi liăn zuò-rén”
ただ、現代中国社会の日常会話では、大袈裟な言い方や軽薄な使い方もよく聞かれる。
例えば、“你明明答应好跟我结婚,现在却公然反悔了,这叫我怎么做人啊?我在同事和朋友面前都抬不起头了
(あなたは私と結婚すると明確に承諾したのに、今になって気が変わって大っぴらに約束を破った。
私はもう同僚や友人に顔向けもできない羽目になった。私に人間廃業しろとでも言うのですか?)”。
婚約解消は、とかく双方のさまざまな要因・利害が複雑に絡み合うもので、たとえそれによって赤恥を掻いたとしても、
せいぜい「没脸见人」レベルの話に過ぎない。
それがなぜ「人間廃業」うんぬんレベルの話にすり替わるのか、はなはだ不可解だ。
この事案における”你叫我怎么做人啊?我简直没脸做人”との言辞は、むしろ被害妄想的な泣き言、
又は相手を一方的に譴責する「捨てゼリフ」の類に過ぎず、言い方が軽薄かつ大袈裟過ぎて、
言葉の乱用との誹りを免れないだろう。
結局、話の真意や深意は事案の性質や背景、さらには文脈全体をみて判断するしかない。
“做人”の意味は「人間らしく生きる(=活得像个人样儿 huó de xiàng ge rényàngr)」との解釈も散見される。
人間らしく生きるとは、含蓄の深い言葉ですが、ちなみにあるAIによれば「自己の存在を大切にし、他者との深い絆を築くこと、
社会や環境に対し責任ある行動を取ること」だと回答している。
( つづく 鄭青榮 )