中国語あれこれ

中国流 説得スタイル ー表現解説集【第7話(B)】

《 中級会話エリアの穴場 》
【第7話(B)】物事に対する処理態度・方法に関する教誡・説得フレーズ

请不要客气,这些东西都是朋友送的,我只不过是借花献佛罢了
どうかご遠慮なく受け取ってください。じつはこれらの品はみな友人からの贈り物でして、
私はただこうして利用させてもらっただけのことですから

★「人の褌で相撲を取る」と「借花献佛」の相違点は???
余談になるが、「第7話A」で言及した「人の褌で相撲を取る」という諺はちょっと面白い言い回しです。
いかにも日本的で、日本語らしい表現だと思うが、
一見すると中国語の諺——「借花献佛 jiè huā xiàn fó (花を借りて仏様にお供えする)」とよく似ている。

両者を引き比べると、「褌」と「花」、「相撲を取る」と「仏前に供える」がそれぞれ対応しています。
でも、なんだかちぐはぐで、妙に落差が大きいので、違和感を覚える人は少なくないと思う。
しかし、一部のAI翻訳では両者の対訳関係は成立するとの解答がはっきりと打ち出されている。
さて、正否はどうだろうか?

たしかに「借花献佛」の由来は、字面解釈の通り「他人の花を借りて、仏前にお供えすること」です。
ただこの供花行為が一体どのような具体的な情況下で起きたのか、
そこを辿ってゆけばもっと深い意味が掴めるに違いないと思う。

ある本の注釈では、「手ぶらで寺の前を通りかかった信者が、素通りするのは仏様に義理を欠くと思い、
供花を手に入れようとしたが果たせず、急遽、身辺の参拝客から少し分けてもらい仏前に供えたこと」を指している、と言われる。
それが今の中国では移り変わって、「人から贈られた物を贈り物に利用すること」を比喩的に言う場合が多い。

例えば、
请不要客气,这些东西都是朋友送的,我只不过是借花献佛罢了
qĭng bù yào kèqi,zhèxiē dōngxi dōu shì péngyou sòng de,wǒ zhĭ bù guò shì jièhuā-xiànfó bàle。
→どうかご遠慮なく受け取ってください。じつはこれらの品はみな友人からの贈り物でして、
私はただこうして利用させてもらっただけのことですから(【应用汉语词典】から引用)
私はこの文脈の中の「借花献佛」は、言葉遣いとしては気取らず、率直で謙虚な一種の社交辞令だと感じる。

つまり「借花献佛」は「事のついでに義理を尽くす」とか「もらい物で義理を済ます」意味が付いて回る点がポイントになっています。
したがって、他人の物(財貨)を利用して、自分に都合のよいことをする点では、「人の褌で相撲を取る」と意味は一致しているわけです。
しかし、「人の褌…」には、チャッカリ私利私欲の追求に徹する狡猾さ、厚かましさに対する一種の風刺やあざけりが込められているが、
借花献佛」にはそうしたネガティブな評価は全く存在しない。

一方、「人の褌で相撲を取る」には、「事のついでに義理を尽くす」とか、
「社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり、報いたりしなければならない」意味は全然ないので、
両者の違いもまた明らかです。
しかも「相撲取りの褌」はいわば一身専属的なもので、いわゆる「贈答品」でもないし、日常の「もらい物」でもないはずです。
その意味において、両者の関係性は似て非なるものと言える。

それにしても、両者を見比べると、俗でデリケートな「褌」と宗教的な厳かな「供花」、
さらにはスポーツ競技の「相撲を取る」に対する仏事の「お供えする」、
これら両者それぞれの落差はいかにも大き過ぎる。

そこでこの差を縮める試みとして、「褌」をあの華麗な「化粧回し」に、
また「相撲を取る」を「奉納相撲を披露する」に変えたらどうなるのか、と想像してもみました。
例えば「人の化粧回しで奉納相撲を披露する」と言えば、
一見風雅な「借花献佛」の原義とかなり近い意味、似通った雰囲気になると思いますが…。

なぜなら、奉納相撲といえば、天下泰平・五穀豊穣を願い、神前で力と技を捧げる神事ですから、
仏前のお供えと似通ってくるではありませんか。
ただ、現実問題として、厳かな奉納土俵入りを行う横綱が、果たしてちゃっかり他人の化粧回しを使うものだろうか?
いや、いや、まずありえない!

盗難で化粧回しを失くした横綱が急場しのぎに人のものを借りるというのも出来過ぎた話でまず起こり得ない。
となると、語句の入れ替えはそもそも無理な話で、ここはやはり、「人の褌で相撲を取る」というほかはありません。
とすると、「人の褌」には何か深い意味があるのでしょうか?

少し調べてみたら、一説によると、「相撲取りの褌/まわし」は「力士のたゆまぬ稽古、精進のシンボルであり、
とうてい安易に貸し借りできるものではない」という。
また「まわしを締め込む時は、心身共に緊張させ、邪念・汚心を去り、清明・明朗の心境を以て締め込まなければならない」と言われます。

もしそうであるならば、人の褌を借りる行為自体が大きな問題になります。
なぜならば、強い兄弟子の「胸」を借りて稽古に励むことは無論よいとしても、
果たして兄弟子の大事な「褌」まで安易に借りて土俵に上れるものなのか?

「礼・義・恥」を重んじる相撲道の道徳規範から言えば、まずありえないだろうと思います。
やや極論でしょうが、「褌は男の魂」だと主張する日本人もいるくらいですから。
その点からいえば、そもそも相撲道から逸脱した「人のふんどしを借りる」行為自体に、違和感を抱いてしまう。

あるAIに質問したところ、
この諺は「江戸庶民共通の大いなる楽しみである大相撲に託けて言葉巧みに奇想天外な発想を表現したもの」との見解もあるが、
それが日本的な洒落だというならば、これ以上の議論は無理であろう。

ただ「人の褌で相撲を取る」という諺には、繰り返しになってしまうが、
自分で努力せず、安易に他人に頼り、他人を利用する厚かましさに対する軽蔑・風刺の意味が込められている点が重要だ。
それならば、中国語の「借鸡生蛋 jiè jī shēng dàn(借りた鶏に卵を産ませる)」のほうが適訳ではないかという説もある。
ただ、中国語の「借鸡生蛋」には軽蔑、風刺やあざけりの意味はなく、
例えば商いの世界では、むしろうまい商法、ないしは巧みな経営戦略の一つだとの解釈が一般的だ。

こうしてみると、よく耳にする「人の褌…」も、日本の歴史文化や風土人情などに関する知識がないと、
正しく理解することは難しいものだと感じる。
同じく、中国語にしても「借花献佛」と「借鸡生蛋」は似て非なるものであるなど、
このへんは両国それぞれの言語文化の深層に大いに興味をそそられる。

(つづく 鄭青榮)