「天高く輝く母なる星、それが太陽だ。46億年前、原始太陽のドラマチックな営みから生まれたのが私たちの住むこの地球だ」、と科学雑誌は説く。そうです、太陽の光と熱の豊かな恵みを受ける水の惑星・奇跡の星、それが私達の地球です。そして、太陽なくしては生きられない人類。そんな尊崇すべき命の恩人――太陽をこともあろうに「日干し」にするとは、不届き千万ではないか。
そうですとも!いかにも、“晒”の基本義は“太阳把光和热照射到物体上”=「物体に対して太陽が光と熱を照りつける、つまり日干しにする」である。そこから類推すると、“晒太阳 shài tài yáng”=「太陽を日干しにする」、となってしまう。でも、これ、なんだか変ですよね。第一、「太陽を日干しにする」ことなどあり得ないのは、明々白々。結論を先に言うと、“晒太阳”の正解は「日向ぼっこする」「日光浴する」です。しかし、この程度の生半可な説明では、学習者のみなさんはなかなか納得が行かない。わけを聞くと、“晒衣服”は「衣類を干す」、“晒粮食”「穀物を日干しする」、“晒书”は「書物を虫干しする」、だから、“晒太阳”は太陽を日干しにする、これ以外に解釈のしようがない、と。根拠を挙げよというなら、「目的語は他動詞の示す動作の対象だから」、だと。
なるほど、一理ありますね。外形からみて、両方とも「動詞“晒”+目的語(宾语=客語)」にはなっている。ですが、目的語をよくみると、“粮食” “衣服” “书”はいずれも地上の物体で、太陽光線を浴びる受け手ですが、“太阳”だけは天体で、地上のモノではない。しかも、動作の受け手ではありません。それどころか逆です。“晒”=「光と熱を照射する」、「日干しにする」という動作の主体は、ほかならぬ“太阳”自身なのです。はて、どうしたものか?いっそのこと、太陽が二つあって、“太阳A晒太阳B”ならば、“太阳A”が“太阳B”を日干しにすることもできそうだが、それは太陽系ではあり得ない話です。さて、この混乱の奥で、いったい何が起きているのでしょうか?これが今回の話題です。
たしかに、“我晒衣服”のように、人物+晒+物体ならば、人が太陽熱を利用して衣類などの物体を日干しするとか、日に当てる、日に晒らすなどとなる。ところが、そうではなく、センテンスの中に“晒”の目的語たる物体(衣服、粮食、书)が一つも介在せず、ただ単に“我晒太阳”=人物+晒+太陽、この文はどうだろう?つまり、ヒトと太陽の両者のみが真正面から向き合っているシンプルな構図――大相撲で言うと、“我”と“太阳”の両力士ががっぷりと四つに組んで直接対決している図である。こうなると、読者の皆さんも“晒太阳”はどうやら「訳あり」で、“晒衣服”の類とは異なるから、別格扱いにするべき事例であることをもう薄々感じておられると思う。まず言えるのは、“我”は太陽エネルギーを持たない以上、太陽を日干しにすることなどは、到底できっこない。逆に「日向ぼっこする」というのも、文法の筋として飛躍があり過ぎて、腑に落ちない。これは大きなジレンマだ。この矛盾から抜け出すのに、一部の学者は次のような新しい理屈を編み出した。
1)“晒太阳”の太陽は、(晒=)照射するターゲット(対象)ではなく、照射するのに使われる道具と解釈する。
2)“晒”は太陽の立場からいえば「光と熱を物体に照射する」ですが、ヒトの立場から いうと、「太陽の光熱を浴びる」という意味に転用して使える。
つまり、「太陽を道具にしてその光熱を浴びる」、これは、いかにも人間中心主義の考え方ですね。こうして、この1)「太陽道具説」と、2)「太陽光熱受容説」の助けを借りれば、“我晒太阳” の“晒太阳”の意味を再構成することができるようになる。その意味は、“我利用阳光晒我的身体(wǒ lìyòng yángguāng shài wǒde shēntĭ)”=「私は太陽の光と熱を利用して、それを自分の体に当てる」となるのです。なんと、“太阳”の陰に隠れていた真の目的語は、じつは“我的身体”だったのです。言い方を変えると、主語の“我”は“在太阳光下接受它的光和热(zài tàiyángguāng xià jiēshòu tāde guāng hé rè)”、つまり自分の意志で日光浴するというわけです。これは明かに、視点を太陽中心から人間主体へ転換させているではありませんか。
なにしろ、太陽は太陽エネルギーを放射できるが、ヒトは逆立ちしても無理だ。でもそのかわり、ヒトはその太陽エネルギーをいかに生命活動の中に生かし、利用するのか、という知的高等生物の立場や生活者の立場がある。“晒太阳”という言い回しは、従来の「太陽主体説」を「太陽道具説」に、そして「太陽照射説」を「太陽光熱受容説」に大きく転換させるという、いわば「逆転の発想(逆向思维nìxiàng-sīwéi)」から生まれた言い回し、といえそうです。長ったらしい“我利用阳光晒我的身体”などよりも“我晒太阳”のほうがはるかに単刀直入で、いかにも暮らしの中から生まれた簡潔な生活用語の香りが漂っているではありませんか。
中国語語法の中に見られる上記のような一般常識の打破から生まれた「離れ技」の類は、其の実、中国人の普段の暮らしの中にも多く存在する現象で、別に珍しくはない。例えば、世界に知られる少林拳の多種多彩な技の中には、人間のワザとは信じられないような一瞬の神技や、女性よりも美しい魅惑の高音で歌う男性歌手などなど、中国全国各地の草の根のさまざまな分野には、いわゆる「達人・鉄人・奇人・変人」たちが、それぞれユニークな驚きの離れワザ、逆転技を披露しては国中を楽しませている。まさに“乡村出奇士,山野有高人’’の光景だ。彼ら、そして彼女らがその超人的なワザを見せる動画やテレビ映像もよくSNS上で散見し、誰でも楽しむことができる。もはや様々な離れ技は、悠久の歴史文化に育まれた中国の国柄と国民性を構成するDNA級ファクターと言っても過言ではない。羅針盤・火薬・紙・印刷術――古代四大発明の肩書を持つ国家、悠久の文明国中国は、その伝統を脈々と受け継ぎ、現代においても大輪の科学技術の花を次々と咲かせています。
では、ここで、関連質問を一つ。太陽が動作“晒”の主体ならば、太陽を主語にして、“太阳晒我”といえるのか?また、もし、この言い方が成り立つならば、その意味は何か?ハイ、答えは、文としては成り立つ。が、意味は“我晒太阳”とは違い、「太陽が私を照り付ける」となり、のんびりと日向ぼっこするどころか、太陽のきつい照り付けに困惑するような意味合いになってしまう。日常会話の例文を一つ挙げると、“太阳晒得我直流汗(tàiyáng shàide wǒ zhí liúhàn)”。(この句のイメージは「カンカン照りに見舞われて、私は滝の汗だ」)…うむ、一筋縄では通用しない中国語だ、と言われそうだ。
以上に取り上げたように、中国語表現には見かけは一見、矛盾した現象になっている例が他にもたくさんあります。それらの矛盾のなぞを解く鍵の一つは、中国語センテンスの中の「目的語」の正体、およびその目的語と動詞両者の意味関係にあります。とりわけ中国語文法における「目的語=宾(賓)语=客語」の概念は範囲がとても広い。その中には、目的語が意味上、動作の主体、つまり主語になるものさえ含まれている。例えば“下雨”、“刮风”、“打雷”、“闪电”、“起雾(车窗起雾了chēchuāng qĭwù le)” などの気象用語がそれに該当する。外観上、”雨”、“风”、“雷”、“电”、“雾”はそれぞれの動詞の目的語に見えるが、意味上は「雨が降る」、「風が吹く」、「雷が鳴る」、「稲妻が光る」、「霧が発生する」と動作の主体になっているではないか。まさに「客語(目的語)」が主語に変身している。つまり、「主客転倒」している‼ これは文法分野の「離れ技」に違いない。このへんが日本語の文法とは大きく異なるので、分かりにくいところといわれます。しかし、中国語文法・語法には未解明の部分はまだあるにしても、体系的な立派な文法ルールは厳然と存在していることは否定できない。
今回、例として取り上げた“晒太阳”は、「迷宮・動詞エリア」の中の不思議スポットの一つですが、その不思議さの中に、逆に中国人の中国的特色を帯びた発想や言い回しパターンが隠されていて面白い。中国語の「動詞+目的語」の意味関係は、じつにさまざまですが、また機会があったら、いくつか例を挙げてお話したいと思います。
(次回に続く/鄭青榮)