死水易腐,流水不腐

不流动的水容易腐坏,流动的水不会腐坏。
→淀んだ水は腐り易く、流れる水は腐らないものだ。
人的生命、社会、社团等等也都是这样。只有不断地运动,只有持续改革,只有力求发展演进,才能有活力,才能成长。反过来说,一个人、一个社会,如果一味墨守成规,满足于维持现状,就会失去前进的动力,终究使人和社会都变得落后腐朽。
→人間の生命、社会や社団なども同様で、絶えず運動し、継続的に改革し、進化を求めて努力してこそはじめて活力を具え、成長することができる。これとは反対に、人や社会がひたすら古いしきたりを固く守り、現状維持に満足するならば、前進する原動力を失い、しまいに時代に立ち遅れ、陳腐な存在になってしまう。
【コメント】
流れる水は溶存酸素を多く含み、水中の有機物を分解して雑菌の繁殖を抑えるので、腐らないという。反対に淀んだ水や水たまりは溶存酸素が少なく、雑菌が繁殖して腐り易い。転義として、運動し、変化する中から活力や強い生命力が生まれるとの意味。
一花独放不是春,百花齐放春满园
一枝花开放了不能说明春天已到,但是如果各种各样的花都争相盛开,春色就充满于庭园,也就是春天已经来到了。
→一輪の花が咲いただけでは春とは言えない。色とりどりの花が一斉に咲き乱れてこそ、春景色が庭園に満ち溢れ、春の到来を告げる。
【コメント】
自分ひとりだけが好くてもダメで、みんな好いのが望ましいとの比喩にも使われる。
落花有意随流水 流水无情恋落花
落花愿意跟流水一起去漂泊,而流水对落花却无意。
→散り落ちる花は流れる河水に乗って漂って行きたいのに、河水は落花に対して全くその気がない。
比喻一个人对另外一个人有情,想要一心跟随他(她)到永远;而别人对她 (他)根本没感觉,完全不理会。通常用来形容一个人的“单相思”或“暗恋”的单向失衡现象。
→相手に心を寄せ、ひたすら何処までも付いて行きたいと願っても、相手は全く無感覚、 気にも留めようとしない。一般的に、片思いや秘かに恋慕するといった一方通行のアンバランスな心理現象の形容に使われる。
※出典;明代の馮夢龍「喩世明言」
★語注:
●理会;相手にする/構う ●而;〔接続詞〕その一方で ●单相思;片思い ●暗恋;秘かに恋慕する
▼相关成语等;
“一往情深” “一见钟情” “坠入爱河” “初恋情人” “冷若冰霜”

【コメント】
「落花」と「流水」という自然現象に詩人の感覚と意志を注入して、片思いの恋情を表現している。ちなみに中国語の“萍水相逢”は「縁は異なもの味なもの」という言い方に近似しているが、人は誰しもひと目惚れ、片思いや慕情のすれ違いなどを経験し、記憶している。そんな甘くもほろ苦い感情の記憶が、動態に富んだ「落花・流水」の鮮やかな景観に呼び覚まされるのかもしれない。“落花流水”は、このほかにも、春の終わりの景色を名残惜しむとか、散々な目に遭うなどの意味にも使われる。
水太清 藏不了大鱼 / 水至清则无鱼
→あまりにも澄んだ水は大魚を隠し切れない/水が過度にきれいだと、魚が棲まなくなる。
水太清了,鱼儿无处藏身,特别是大鱼。清水反而不适宜于鱼类生存。迫于生存环境压力,鱼儿难以隐身自卫,就离开了清水,水中没有了鱼。
→あまりにも澄んだ水の中では、魚類とくに大魚は身の隠し処がなくなってしまう。澄んだ水はむしろ魚類にとって棲みづらいものだ。そうした棲息環境のプレッシャーに押されて、魚はきれいな水から離れて行く。身を隠して自衛することが難しくなるから、水中から魚は姿を消すことになる。
★語注:
●藏不了;隠そうにも隠すことができない ●「…不了」→〔不可能補語〕
●不适宜于…; …に相応しくない ●迫于;…に迫られて・追い詰められて
●“水至清则无鱼”=“水清无鱼”
 
【引申義】
对别人要求太严格了就没有朋友,这是讲一个度的问题,告诫人们凡事不要做得太死板,要注意通融。
→他人に対して要求が厳しすぎると、友達になってくれる人はいなくなる。これは物事の程度を重視するかどうかの問題なのです。どんな事でも、やり方が一本調子ではいけない、融通を利かせるべきだ、と人々を戒めている/潔癖すぎると人から敬遠される。
★語注:
●讲;重んじる ●死板;融通が利かない・硬直した ●告诫;戒める・訓戒する
【コメント】
ちなみに、これと関連のあるものとして、日本語に「清濁合わせ呑む」という諺があります。
辞書は「清流も濁流も分け隔てなく受け入れる大海の様子から、器や度量の大きいことの譬え」と解説している。また日本出版の日中辞典には「清濁合わせ呑む」とは“胸襟开阔,能容纳一切人”、“不分善恶,来者不拒”と出ている。さらには「清流」は善人や賢者、「濁流」は悪人や愚者を指すとの穿った見方を示した辞書もある。
しかし、これには少し違和感があったので、中国の辞書で確認したら、“浊流”;品格卑微(出身が卑しい/身分が低い)、“清流”;德行高洁富有名望的士大夫官吏或较有声望、地位的知识分子(品行方正、清廉にして誉れ高い官吏や知識人)と解説。いずれも善悪や賢愚に言及していない。
この例から、中国語と日本語は多くの同字熟語を共有するが、意味が異なることも多いので、注意が必要だと改めて知らされました。中国語の“清流”、“浊流”が生まれた時代は、身分制封建社会なので、社会思想として貴賤上下意識が主流を成していた。その点から推測すると、「清濁」には善悪や賢愚ではなく、貴賤上下の観念が強く投影した表現と取るほうが妥当と思われる。
风好正是扬帆时 不待扬鞭自奋蹄
 
风向风力良好,正是扬帆起航的时候,就像马不等赶车的扬鞭就自己奋蹄奔跑起来那样。
→風は程よく、まさに帆を揚げて航行開始する時だ。それはちょうど、御者が鞭を振るうのを待たずに、馬が自分で蹄を振るって走り出すのと同じことだ。)
正好处在合适、恰当的时候,自己努力,不需要别人的催促和鞭策。
→情勢がちょうどふさわしい潮時に、他人の催促や鞭撻を必要とせずに自分から進んで努力すること。
★語注:
●处在…;(…の状態・時期)にある/当たる ●恰当;適切である
●鞭策;鞭撻する・励ます
【コメント】
「現在はマネー争奪戦の時代である」。これは巨大IT産業アリババの総帥馬雲(ジャック・マー)のセリフ。彼はある講演で次のようにも述べている。“机会总是给懂得抓住机会的人”---「チャンスは、いつもそれを掴むことの意味をよく解っている人に与えられるもの」、つまり「チャンスに恵まれる人は、結局チャンスをつかむことの大切さをよく理解している人なのだ」。チャンスは人を待たず、「あれよ」という間に遠ざかって消えてしまう。だから、好機・潮時を掴むことは極めて大事だ。
【80話参照】
泥菩萨过河,自身难保
→泥の菩薩が川を渡るのは我が身すら持たない/泥人形の菩薩と掛けて川を渡ると解く。その心は、人を救うどころか自身が危ない。
★語注:
●难保=难以保护;護るのが難しい
比喻连自己也保不住,怎么顾得上别人。
→我が身すらも守れないのに、どうして他人に構っておれようかとの譬え
 
【评语】
菩萨像很多是泥胎做的,耐水性很差。如果让这样的泥菩萨趟水过河,就会被河水浸泡而融化掉,这是显而易见的。虽说菩萨重任在身,以救济众生为己任,但是“泥”菩萨就不该跳进河里去救落水人,也不该过河去救人。难道她忘了自己已经不是那个神通广大的“真”菩萨了吗?难道还忘了自己泥塑之身会成为一大隐患,招来杀身之祸吗?在某种意义上来说,泥菩萨过河,其实跟“泥牛入海”也没什么两样,都是一去不复返,只是泥牛不会去救人,更没有什么担当可言罢了。
「わが身が危なくて、人助けどころの話ではない」と意訳できるこの諺は、派生義として、人助けも自分の能力を考えて行うべきだ、強がって無理な人助けするのは、かえって災いを招く、との意味も持つ。菩薩とは修行を重ねて悟りを求め、衆生を救う者を指す。【大辞泉】
( 2020年10月6日 鄭 青榮 )
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